祓川神楽編

祓川神楽保存会会長 西川にしかわ 嘉宏よしひろ 天孫降臨の地とされる霊峰高千穂峰を望む高原町。この地で舞われる神舞は、霧島の修験道の影響を受けた独自の形態を伝えています。19戸の社家を束ねる祓川神楽保存会の西川嘉宏会長にお話を伺いました。

修験の影響色濃い神楽が伝えるもの

険しい山々が幾重にも折り重なる霧島連山。その最高峰、霊験あらたかな高千穂峰を望む高原町の神楽は、「神舞(かんめ)」と呼ばれ、修験道の影響を色濃く残していることで知られています。

起源は室町時代に遡るともいわれ、中でも祓川地区の祓川神楽は、19戸の社家による継承を現代まで続けてきました。

そんな祓川神楽の代名詞が「十二人剱」。寒の深い祓川の講庭を、真剣を手にした12人の氏子たちが体から湯気が立ち上るほど激しく舞うさまには圧倒されます。


また、7歳前後の少年が、大人二人を両脇に従え、真剣の切っ先を握り舞う「剱」も見どころ。西川会長が7歳で初めて舞ったのも「剱」で、そのときの剣先の感触が今も忘れられないのだとか。

「真剣の刃がまるで氷のように冷たくてですね、キーンとした、独特の冷たさなんですよ。今は刃を潰していますけれど、昔はカミソリのようにむき出しのままでしたから、とにかく怖かったですね」

祓川地区では、農民の帯刀が禁じられていた時代にも、神楽のために刀の所持が許されていたというほど、神楽は人々にとって、なくてはならないものでした。

この地の氏子たちは、生まれ育った故郷を守っていくことの誇りや責任を、真剣の冷たさに触れるたびに思い返してきたのかもしれません。


「神楽を舞っていると、これは自分たちにしかできないことなんだと、とても身が引き締まる思いがするんです。この文化は、自分たちが守っていかなければならないんだと強く思いますね」


かつて名人と呼ばれた先輩方の舞を今でも覚えていると話す西川会長。これまで、東京の国立劇場をはじめ県内外で公演や他団体との交流を重ねてきましたが、次の世代を担う若い舞手には、「神楽を舞うことの意味」を誰かに教えられるのではなく、自ら考えてほしい。地域外での経験がそのきっかけになれば、と温かい眼差しで語っていました。

地域全体でつくりあげる祭り

また祓川神楽には、独特の慣わしもあります。神楽の前に祓川神社から天照大神をお迎えする「宮入れ」では、神の役をつとめるのは、地区の年長の女性です。女性も大切な役割を担い、地域全体で1つのお祭りを開催しています。

「男の人たちは『うちん山の神さぁが怒るから、早く帰らんと』って、普段から嫁さんのことまで山の神って言ったりするんですね」。と西川会長は笑いながら話してくれました。


かつて、神楽の季節が近づく実りの秋を迎えると、田んぼのあちこちから神楽歌が聞こえてきたという祓川地区。

神楽は、常に地域の人々とともにあり、地域の絆を強くする大切な役割を担ってきたようです。

インタビュー
平成30年2月28日 祓川神楽殿にて

祓川神楽保存会会長 西川にしかわ 嘉宏よしひろ  祓川に生まれ、仕事と両立させながら、諸先輩方から受け継いできた神舞を現代に継承していく事にいつも誇りを持って行ってきた。
 神舞を未来へ繋ぐ為、伝統を守りながらも時代に合わせた変化を柔軟に受け入れるなど、これからの祓川神楽のあり方を模索している。

第壱回 浅ヶ部神楽編・甲斐晃一郎 第弐回 尾前神楽編・尾前秀久 第参回 祓川神楽編・西川嘉宏 第四回 銀鏡神楽編・濱砂武久