山の暮らしの中心的存在
九州山地の中央部一ツ瀬川の支流尾八重川。その流域の米良山中に西都市尾八重地区があります。
ここに伝わる尾八重神楽の起源は、12世紀の鎌倉時代に神主として都万(つま)神社に奉仕していた壱岐宇多守(いきうたのかみ)にあるといわれています。壱岐宇多守は山歩きが好きで、米良山中を山歩きする途中、尾八重の一本杉に出会います。その圧倒的な
"存在感のある姿を見て己の存在の小ささに気付かされます。自然の中で生活しながら法者(ほじゃ)の道を究めるために修験者の道を選び、修験道場として尾八重地区に“湯之片(ゆのかた)神社”を開いたと伝わります。
尾八重地区は湯之片神社が建立される以前から、先住の人々が生活する山の恵みの豊かな土地でした。壱岐宇多守は山岳修業をしながら、神主として集落ごとに鹿倉宮(かぐらぐう)を置き、先住者が行う狩猟祭りと合わせて、焼畑農法のための火伏祭りも斎行したとされます。そうした山の暮らしのなかにある“お祭りごと”を後世まで伝えるために、神楽伝習所を設け、神楽の普及にも努めました。壱岐宇多守は後に湯之片若宮大明神として祀られ、尾八重神楽の中では最初に降臨する神として花鬼舞(はなおにまい)が奉納されます。
永正8年(1511年)に尾八重神社が領主黒木吉英(くろぎよしひで)により建立され、以来尾八重地区の重要な神社として篤く崇敬されてきました。特に神楽においては、古くは、舞人を務める家々で一番ずつ世襲し一子相伝を課すなど、大事に伝えられてきました。それが、毎年秋の例大祭で奉納される尾八重神楽です。